升砲館の極悪さについて思うところを述べてみたい。
極悪さとはどういうことか?と考えてみたところ、今パッと思いつく理解としては、「厳しさ」であると思う。
相手や自分に対する「厳しさ」である。
升砲館にはその「厳しさ」があると感じている。
さらに掘り下げて「厳しさ」とは何か?相手や自分に対して、「そうなってほしい。」「そうなれる能力を持ち合わせている。」と期待することだと考えている。
このような理解に従うとすれば、升砲館は、我々門下生に対する期待度がとにかく厳しい。
「お前はもっとできる。」「お前はこれができて当然である。」といった細かい点までの指摘・注意が非常に多い。
「お前はできるはずなのになんでできないの?」と当然のように言われるときがしばしばである。
例を述べてみたい。
今年5月ゴールデンウイークの3日間オンライン合宿のことである。
今回の合宿は映画のアテレコでネイティブと同じスピードで自然な表現を行う、という稽古である。
参加者は各自異なるパートを割り当てられたが、自分の割り当てられたパートの映画を見て驚愕した。
すべてのパートの中で一番難しいと思った。
3日間でまともな表現になるだろうかと悩んでしまった。
上記の「お前はこれができて当然である。」との期待値が高すぎると思い、1日目は良く眠れなかった。
何しろ、そのパートは感情のないビジネスでの高速な会話であり、勢いや大げさな表現だけで乗り越えられる壁ではないと感じてしまった。
とにかく極悪である。
しかしながら、「極悪」とは「厳しさ」である一方「優しさ」の表れである。
「お前はこれができるはずだから頑張ってほしい。」「できるようになるように自分が指導してあげる。」という温かさを同時に升砲館は持ち合わせている。
5月のオンライン合宿でも「優しさ」をすごく感じた。期待に応えようと3日間頑張ってみた。
1日目は寝れなかった状態が3日目終了後は自分なりに満足感を得ることができた。
おかげでコロナ禍の憂鬱なゴールデンウイークの中、1つのことに熱中し没頭できたことは、達成感で一杯である。
今までの升砲館合宿の中で一番達成感があるように思う。
さらには、他人に厳しい指摘ができる人は、その人自身にも非常に厳しい。
自分に対する評価が甘いとたとえ他人に指摘しても伝わらないことを理解していると思う。私自身も門下生の方々に発音の指摘をできるような自分に厳しい人間になりたい。
ショーン、ビッキーや諸先輩方の「極悪」な指導を真摯に受け止め、その期待に応えられるよう精進したいと思う。